技術者から町内会長へ 五十嵐哲夫さん

230余世帯で構成される村松町内会。平成19年から10年以上に亘って会長を務めるのが、五十嵐哲夫さん(74)だ。

 

手書きの設計書

哲夫さんは、高校卒業後、土木の技術職として長岡市役所に入庁した。当時は市役所業務の外注が進んでいなかったため、哲夫さんも現場に行って、測量や設計書づくりに汗を流した。当然パソコンなどもないため、図面は手書き、計算も一つ一つ手計算だ。

数多くの道路や河川整備を手掛けたが、特に栖吉から八方台に行く道路は難工事だった。岩場が多く、自衛隊に要請して発破工事を実施したという。

一たび災害が起きれば、土木の職員は寝食を忘れて働く。復旧工事をするためには、現地の状況を確認し、測量・設計をする必要がある。これは我々市民の目にはなかなか見えない部分だ。昭和59年に発生した蓬平の土砂崩れに際しては、田中角栄元総理の現地入りに間に合わせるため、哲夫さんが徹夜で設計書を作ったこともあったという。

 

恩返しの気持ちで

市役所を定年退職後、前町内会長の体調不良もあり、哲夫さんが会長に就任する。「役所勤めでみなさんの世話になったので、恩返し」という気持ちだったという。

就任当初は、町内防災無線の視察対応などに忙殺された。中越地震を契機に、災害時の連絡手段の確保のために前会長が整備したもので、全国表彰も受けた。先進事例として、北海道から九州まで、各市町村から視察が相次いだ。

実は昔ほどは、「町内会としてやらなきゃいけんというのはない」という。以前は多くの陳情があった道路整備などに、一定のメドが立ったことも理由の一つだ。それでも、町内会長としてコミュニティセンターの委員や社会福祉協議会の役員を兼任しており、会議やボランティア活動など多忙な日々を送る。

 

300人→40人

町内会長として最も心配しているのが、少子高齢化問題だ。哲夫さんが小学生だった頃、小学校には全校で300人ほどの児童がいた。それが、哲夫さんの子供世代では120人ほどになり、今は40人程度まで減少している。

その対策として、地域の宅地化や保育園の0歳児保育の復活要望、地域に愛着をもってもらうためのイベント開催などに向けて準備をしているという。

「昔の姿に戻すってのは大変だけど、できる所までやれれば」

地域の将来を想う眼差しは真剣そのものだ。

 

町内会長というのは割に合わない仕事だと思う。ほとんどボランティアであるにも関わらず業務は多方面にわたり、誰から賞賛されるわけでもない。それでも長年やってくれる人がいることは、地域にとって本当にありがたいことだ。

地域のために黙々と汗をかく。哲夫さんのその姿勢は、技術者時代から変わっていない。